2016年8月14日日曜日

社会が育てる子供_6

都市において、夫に先立たれた妻と子供の養育や、労働するにはハンディキャップを持った人間への援助などを、都市コミュニティの構成員が全員で担当するなどという合意は無い

手間暇拠出という強制的な制度もない。

集団就職時代以降は、すべては政府、自治体という公的な第三者が担当している。

子育てもそうだ

田舎のコミュニティにかつて存在した「見守り、管理監督、教育」という機能は、現代社会には全く存在しない。
その
すべては家族が手間暇かけるか、金を払って依頼するかになる。

コミュニティ構成員のお互いの手間暇が金銭負担に置き換わったのだ。

そうなると、
払った税金を取り戻すのが当然という権利意識が芽生え、社会に対する貢献や義務という考え方が後退した。

社会的保障のために集められた資金プール(年金基金、福祉予算など)に対して、「私は困っているのだから、金をもらいたい」という人が増加した。
原因が私の怠惰だとしても、私は現実に困窮しているのだ。
お前ら(=私以外のその他大勢)は、私を助ける義務がある。
私が十分に満足するためには、
適正以上だと思われるレベルの福祉が欲しいし、それを保障するのが税金を徴収しているお上だと考える人が激増した。
適度な福祉が、過剰な福祉に膨張したのだ。

子育てを社会に要求する側は、過剰な要求をするだろう。そして、その当人は他のコミュニティ構成員に手間暇を拠出することは拒否するだろう。
つまりは、過剰な要求をささえるために、過剰な税金が徴収されるだろう。
金は天から降ってこないのだから。