育児の負担に少し遅れてやってきたのが、高齢化した両親の世話だ。
育児は小さな子供の世話、高齢化した両親は大きな子供の世話、ということになろう。
核家族化した現在の現役世代には、農業時代にはなかったようなダブルの負担が重くのしかかった。
その負担を軽減するために、かつての農業時代のように、社会が子供を育て、社会が高齢者の世話をする、という制度に回帰することを望むかもしれない。
社会とは何だろう?
現代社会は、「何か優しく、裕福で気前よく金を払ってくれる第三者的なモノ」ではない。
現代社会は、核家族の集合体だ。
現役世代全員が手間暇を拠出して協力し合うのが現代社会なのだ。
つまり、農業時代のように社会が世話をするとは、現役世代のあなたは世話をするという事なのだ。それが成立する時には、夫婦共働きが当然だろうし、勤務形態も夫100%+妻0%という労働から、夫70%+妻60%という勤務時間になるだろう。(夫:9時~15時、妻:12時~17時というような)
所得は、100から130に増加するだろうが、共働きに付随する支出も増えるので、実質的な所得増加は約10だろうと思う。
社会に変わって子供と高齢者の世話を担当してくれる可能性があるのは、世話をビズネスとする企業だ。ビジネスだから、この企業で働く労働者にフェアな給料を支払う必要があり、経営者と株主や出資者にもフェアなリターンを提供する義務がある。ビジネスは趣味や施しではない。
農業時代では、共同体としての損得勘定があったにせよ、慈悲の融通(一種の地域内保険制度、地域内所得の再配分)がコミュニティ内部で機能していた。
ただし、誰が払い、誰が受け取っているかの対応関係が見えていた。コミュニティへチャリティする側には道徳的義務感があり、受け取る側には感謝の念があった。さらには、コミュニティ全体の負担能力が見えるために全員が限度を認識できた。
そして、コミュニティとその相互扶助のシステムを維持するために、構成員は一定の時間と労力を提供する義務を負うのだという合意があった。
集団就職で田舎から都市に移住することは、田舎のコミュニティに対する義務から足抜けすることを意味した。
古い因習、負担、束縛から逃れて、自分で稼いだ収入から一定の税金(=金)さえ納めれば、時間と労力(=手間暇)を提供する義務を免れることができた。
集団就職者を採用した企業は、義務から足抜けした労働者を必要としていた。
採用した労働者が定期的に田舎に帰って「手間暇がかかるコミュニティに対する義務」を果たすようでは困ると考えていた。
厚生年金の保険料を半分企業が負担するという制度も同じような趣旨だ。
コミュニティから足抜けするために支払うお金(労働者の税金、企業の各種負担金)は、時間と労力の提供という「手間暇」に比べれば負担感が少なく、かつ経済的にも安価だった。
経済的な算数の答え(有利不利、損得勘定)は、「都市化=負担の少なく、自由で裕福な生活」であった。
コミュニティ内の相互扶助システムのない都市部では、個人主義が謳歌され、少ない納税&多額の福祉が住民の要求となっていった。