2016年8月14日日曜日

社会が育てる子供_1

農業が主たる産業の時代は、地域住民全体が共同して農作業を行っていた。子供は、そのコミュニティの労働力として位置づけられていた。

田植え、稲刈りなどなどの農作業は一気にやってしまわねばならない。村人が総出で各田んぼを順番に回って作業する。
当時の農村は、ある種の運命共同体的な性格を持っていた。

共同体から見れば、子供は将来の運命共同体のための労働力だから、子どもをコミュニティ全体で見守り、育てるという思いがあった。

工業化の時代になると、子供は法的に認められるまで(中学を卒業するまで)は、労働力として使えなくなった。
商工業の企業からすれば、家庭が育ててくれた「生産年齢に達した人間」を「定年までの期間限定」で雇用することが可能になった。

つまり
家庭(=夫婦)は、商工業企業のために、コストを負担して子供を育てる工場になったのだ。

かつてコミュニティが負担してくれた「見守り、育てる」という部分も各家庭が負担することになった。
しかも三世代同居から二世代同居になったので、祖父母の負担の提供も消えてしまった。

その結果、夫婦が子育てのために負担する「お金と時間」は、農業中心の時代よりも大幅に増加した。

その分を補うだけの「夫婦の賃金増加」は起こっていない。


では、夫婦の負担を減らすために、子供は社会が育てる、というシステムにしよう!、、と考えれば、どうなるだろう?
社会という抽象的な存在は無い。存在するのは、税金を払う人と、出入りのネットでは税金を受け取る人という「
2階層」だ。

税金を払うグループはボランティアで払うのではない。
払ったお金が自分の意向に沿って使われて欲しいと考える。それは民主主義の出発点である名誉革命から今日まで変わらない。

つまり、税金を受け取る側は、払う側の意向に従わねばならないのだ。
お金は天から降って来るものではない。