オタク的な個人にPCを販売して成功したアップル
企業を顧客に抱えていた巨大企業IBMの下請けから出発して成功したマイクロソフト
その後の両社の運命は、1:時代に翻弄された部分と、2:経営者のDNAによる部分とが合わさって、業績や株価は異なる推移を示した。
まずは、マイクロソフトが凌駕するやってきた。
1980年代前半まではPCを個人で所有して使う人は稀であり、一種のオタクだった。
あれこれ揃えると、100万円以上の出費が必要だったからだ。
あれこれ揃えると、100万円以上の出費が必要だったからだ。
その時代は圧倒的にアップルの評価が高かった。採用する技術も先進的だった。
PCはメインフレームを補完するモノという位置づけに拘泥する大企業IBMのフットワークは重く、新技術への対応やユーザーフレンドリーというマインドが欠如していたのだ。
しかし、1985年後半から1999年というPCの飛躍の時期に事態は一変した。
一般人がPCを購入して使えるようになったのだ。
1982年以降、IBMのPCをリバース・エンジニアリングした互換機が製造販売されるようになった結果、世界中で多数の企業が我も我もとマイクロソフトのOSを搭載したPCを製造販売するようになった。
1982年以降、IBMのPCをリバース・エンジニアリングした互換機が製造販売されるようになった結果、世界中で多数の企業が我も我もとマイクロソフトのOSを搭載したPCを製造販売するようになった。
オタク的なファンに特化し、製造販売を自社で独占する方針のアップルはつらい時代を迎えた。
働いている会社で使っているマイクロソフトのOSとそのキーボードに慣れた一般ユーザーは同じマイクロソフトのPCを選択した。企業を制していたマイクロソフトが時代の波に乗ったのだ。
連合軍を組んだことでアップル比較で低価格戦略を採用できたことも大きかった。
1989年、東芝が初めて20万円を切る価格で出したノートPC、J3100SSの大成功はそういう時代を象徴する出来事だった。実は春山は、J3100SSを2回も買った
両社の株価パフォーマン氏は雲泥の差になった。
倒産の危機に瀕したアップルは、1997年8月にはライバルでもあるマイクロソフトから1億5000万ドルの救済資金を出してもらうまでに追い込まれる。この1997年がアップルの最悪ポイント、転換点だった。
続く
続く
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