2018年4月11日水曜日

民主主義は資本主義よりも重要?

リーマン・ショック以降に顕著になってきたことだが、生産性や効率性の追求とグローバル化、IT化の結果として生み出される「敗者の感情」が政治的な問題としてクローズ・アップされている。
フェアな国際競争の結果を受け入れることが一段と困難になってきたのだ。
では、結果の平等が「上位概念」になるべきなのだろうか?

2018年4月7日土曜日

試練の日本株


1:2018年1月23日以降の株式市場の反応
金利上昇の世界の株式へのインパクトは2009年以降では二回目だ
下図の②の時が、FRBの緩和終了の模索時に起こった金利を引き金とする最初の調整だった。
前回は資源エネルギー・バブルの最終崩壊プロセス(=副作用)も加わったために、約1年かの調整となった。今回は副作用が顕在化しないなら、1回目よりも短期間だろう。
長くても11月6日のUS中間選挙前までだろう



2:日本の試練
2012年10月以降はアベノミクス相場だ。
 アベノミクスの目標は、a: デフレから脱出し、2%のインフレ率を目指す、b: 行き過ぎた円高を適正なレベルまで円安に戻す、c: 民間の経済活動を活性化させる、という3項目だった。
それを達成する手段が、1:大胆な金融政策 by 日銀、2:機動的な財政政策 by 政府、3:民間投資を喚起する成長戦略 by 政府、という3本の矢だった

1:3本の矢の中で、大胆な金融政策by日銀が最強の矢だった。日経平均は、約3倍に上昇した。円高も是正された。
2:機動的な財政政策は、税収不足と膨れ上がる年金&医療費という2重苦の制約があり、思うに任せられなかった。
3:民間投資を喚起する成長戦略は、規制緩和と表裏一体である。しかし、その多くは実効性に乏しいままで今日に至っている。

国債の買い入れ、株式のETF形式での買い入れ、Jリートの買い入れのペースダウンは市場全体のvaluationPERPBR)に下方圧力となるだろう。そういう認識があるから、123日の金融政策決定会合の内容とその後の黒田総裁の記者会見は、言葉は優しいが内容は相場に対しては厳しいものと受け止められ、株式は大幅な下落を演じた。


20162017年の世界景気は大幅に改善した。(下の日経新聞記事参照)
日本の株式市場に上昇されている株の多くは世界基準で見れば「循環株、景気敏感株、value株」であるが、それらの株が好影響を享受したのが過去2年間だった。



景気モメンタムの低下はUS株式市場(日本よりもGrowth的な企業が多い)よりも日本株式には辛い状況だ

 

しかも、これまで「政治的に安定しているから、日本株は買える」という好材料が揺らいでいる。昨年の森友問題以上の安倍政権は安定度が低下している。
この政治的面での不安定さ日銀の態度の変化を理由に外国人投資家は、2018年は8兆円以上を売り越している。


外国人投資家にとって、そもそもvolatilityが高く、returnの低い」日本株は年金資産に不向きでありopportunistic investment」資産という位置づけが多い。


彼らが戻って来るためには、まずは政治の安定、そして金利の上昇をものともせずに増加する企業利益という日本が必要だろう


2018年4月4日水曜日

ドル円 150年の歴史

今から約150年前、江戸時代末期は、1ドル=1円でした。
2018年4月4日では、1ドル=106円です。


この約150年間でずいぶん円安になったものです。

明治時代から昭和10年代まで、長い間日本は貿易赤字に悩まされ、輸入代金を支払うお金が不足していました。
その間に、1ドル=1円から1ドル=4円程度まで円安が進みました。70年弱で75%円安(4分の1の価値に目減り)になりました。

次に、第2次世界大戦を挟む15年弱の短期間に、1ドル=約4円から1ドル=360円まで急激な円安となりました。
何と90分の1に目減りしました。

その後30年弱は、360円から80円(1995年5月)まで円高でしたが、その後は、一旦円安となった後、長期の円高になっています。

過去150年を振り替えると、円安の時代のほうが長いです。

===============================

戦前の円と戦後の円は違う???
第二次世界大戦が始まる前の昭和14年の終わり頃は、それまでの長期間の貿易赤字などで円安が進んで、1ドル=4.25円になっていました。


 そのころ、満州・中国・その他アジア諸国へと戦争を拡大していった日本は、昭和16年(1941年12月)に、ついにアメリカと戦争に突入しました。この時点で、公式にはドルと円の交換は中断されました。

 しかし、闇市場では為替市場が続いており、円安が加速していたことでしょう。1990年にイラクのフセインがクウェートに進行して始まった湾岸戦争の時、イラクの通貨は大幅に下落しました。


1941年当時、日本がアメリカに戦争を仕掛けるなんて、湾岸戦争と似たようなものでしたから、第二次世界大戦開戦直後、円がドルに対して大幅に下落下したことは間違いありません。

 さて、昭和20年(1945年)日本が負けて戦争が終わり、日米の貿易が再開されます。ドル円の為替も再開です。
 しかし、この時はまだ、1ドル=360円ではありません。


 昭和20年(1945年) 1ドル=15円
(1946年2月16日、新円への切り替え
 昭和22年(1947年) 1ドル=50円(1月、復興金融公庫の発足
 昭和23年(1948年)1ドル=270円
 昭和24年4月25日(1949年) 1ドル=360円



というように急速・大幅な円安となったそうです。
戦後の超大幅なインフレで、日本円の価値がドンドン下落(外国のお金に対して)していったのです。

ここでおわかりのように、戦前の円と現在私たちが使用している円は、ズーッと切れ目無く連続していると言っても良いでしょう。

無論お札のデザインは何回も変わりました。
戦後の超大幅インフレを止めるために、わざとお札のデザインを変えたこともありました。その時(1946年2月)は、古いデザインの紙幣の有効期間を約一ヶ月と極端に短くして、タンス預金を短期間に新しいデザインの紙幣に交換しました。


しかも、新しいデザインの紙幣に交換しても、そのお札は家に持ち帰ることはできず、銀行に強制的に預金させられ、かつ引き出しは一定金額に制限されました。

いわゆる、『旧円から新円へ』の切り替えです。これは、世の中のタンス預金を銀行に強制的に預金させて使えなくすることによって、過剰な消費を抑えてインフレを退治しようとしたのです。



しかし、急激な円安は、新円に切り替えられた後に起こっています。
日本復興の為に設立された復興金融公庫(1947年1月発足)が、大々的に資金調達(=事実上のお札の大量発行)をして復興特需を創造していったからです。

復興融資は、全国銀行貸し出しの33%になった。
融資資金の3分の二の資金は、日銀が融資した。




第二次世界大戦前に日本円の預金・不動産・株などを保有していた外国人は大損しました。
逆に、ドルやポンドで借金をしていた日本政府は借金が100倍に膨れてしまいました。




ただ、日本がエライのは、この100倍に膨れ上がった借金を、苦労しながらも完全に返済したのです。まあ、返済の期限は20~30年ほど伸ばしてもらいましたが。
それから、もう一つ。昔、円の下は、銭と厘がありました。この銭や厘はなくなったのではありません。
どっこい、今でも日本円の単位として、法律的にはチャント存在しています。