敵の敵は味方、という作戦は古今東西で使われてきた。
敵が憎いがゆえに、敵の敵の素性やその後の後始末などは後回しにしたり考慮せずに「敵の敵を利用する」という短視眼的な費用対効果で敵の敵に武器や資金を援助してしまう。
米国の軍事行動もその例外では無かった。
最初は、1980年代の話・・・イラクのサダム・フセイン(イラク国内の少数派スン二派)に武器と資金を援助して、イランとの戦争を遂行させた
1978年のイラン革命で樹立されたイスラム共和国は、パフラヴィー朝(アメリカの傀儡政権)を打倒し、翌年の1979年11月にはイランの米国大使館人質事件が起こり、米国は1980年4月に国交断絶しイランに対して経済制裁を発動した。
その翌年1980年、国境をめぐってイランと対立していたイラク(サダム・フセイン大統領)がイランに侵攻、イラン・イラク戦争が始まった。
イラクが負けて、イラクの産油地域が脅かされたり、イラン革命が周辺アラブ国家に輸出されることを懸念した米国はイラクに軍事支援を行った(敵の敵は味方、イランの敵であるイラクは味方)
イランイラク戦争に関しては、ここwikipediaに詳細があります。
米国大使館人質事件に関しては、ここwikipediaに詳細があります
そのサダム・フセインの後始末は大変でした
イラン・イラク戦争中に、イラク北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、サダム・フセインに反旗を翻して武装闘争を開始した。イラクと対立していたシリアもイランを支持(=敵の敵は味方)し、シリア経由でイラク原油を欧州に送るためのパイプラインを停止した。
そのためサダム・フセインは、クルド人に対して化学兵器を用いて大量虐殺を実施したが、それが人権団体により暴露されて欧米との関係が悪化した。
そんな中、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていたサダム・フセインに反対して増産&価格下落に加担したクウェート(イラクは「クウェートは元来イランの領土だと考えている」)にサダム・フセインは軍事侵攻した(湾岸戦争)
湾岸戦争の詳細は、ここwikipediaにあります
イラク戦争の詳細は、ここwikipediaにあります。
そしてその数年後に「大量破壊兵器保有疑惑」を理由に米国によって仕掛けられたイラク戦争後にサダム・フセインは逮捕され、2006年に処刑された。
処刑の場にサドル師派(=イラクのシーア派民兵組織のリーダー)の関係者がいた。シーア派住民の多くは、処刑時に憎いサダム・フセインに「地獄に落ちろ」の言葉が投げつけられたことに留飲下げただろうと言われている。
参照:http://www.asahi.com/international/kawakami/TKY200701090200.html
その後の米国が」採用した「敵の敵は味方」作戦はISILですが、次回に・・・
2020年1月5日日曜日
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