2016年7月26日火曜日

中国の民主化 (2) 民主化を生んだ英国の名誉革命

1:英国の勝因
英国は17世紀に名誉革命(1689年)を通じて代表民主制という制度を実現した。代表民主制は現代まで生き延びており世界中に拡散が続いている。その価値を認める人々が増えているという事だろう。

代表民主制と法治主義の発展に関しては「戦争とそのファイナンス」が大きな役割を果たした。それは今でも変わっていない。昔はリアルな戦争とファイナンスというシンプルな構図だったが、現在では経済覇権や経済戦争に重点が置き換わっている。とは言え、国際政治における覇権をめぐる戦いであることには変わりはない。

 

戦争とファイナンスの歴史の主戦場は欧州、主役は英国、フランス、スペインだった。当時のドイツは弱小の分裂国家に過ぎなかった。

その歴史的な帰結は、英国が勝者、敗者はフランス、スペインであるが、英仏戦争(1688-1697)と英西戦争(1702-1713)を通じて、フランス・スペインが資金調達不足に陥った一方、英国は豊富な資金を調達して強力な武器を装備できたことが勝敗の分かれ目となった。

資金調達力の差が戦争の勝敗を決したことから、強力な国家には強力な財政が必要という認識が定着した。そして、英国の勝利の背景には名誉革命があった。

2:名誉革命の背景
中世欧州時代の城壁で囲まれた都市内部での家内制手工業の発展に端を発し、18世紀の大規模な工業化(産業革命)に至る過程を通じて社会構造が一変した。

農業よりも利益率の高い商工業の発展は徐々に豊かな個人(資産家)を増やしていった。家内制手工業から初期の工業化(産業革命以前)に移行する過程では、より大きな資本がより大きな利益を生むという好循環が起こり、その恩恵に浴した人々は新興勢力となって政治的な意識を高めていった

王権は未だに生産性の低い農業を基盤としており、王権側は隆興する商工業者に対して徐々に「相対的に弱体化」していった。しかし王権は対外戦争を遂行するための巨額の資金を必要としており、新興勢力や旧来の貴族に対する課税を強化して、「王権 VS 貴族+新興勢力」は対立するようになっていった。

政治的な意識を高めた新興勢力と課税強化に反対する貴族は結託して、王権を制限する手段として「代表制議会主義」を掲げた。
王権からの一方的な課税を制限するために、納税者の代表を選挙で選び議会に送り、その議会が承認した王のみを正当な統治者として認め、議会の承認がない場合は課税は不可能と主張した。

その対立の結果は、清教徒革命(1641-49年)を経て名誉革命(1689年)に結実する。
名誉革命で得られた民主化のレベルは、現在のものとは程遠いレベルであり、単なる王権の制限というレベルだと解釈するのが妥当だろう。

3:名誉革命の意味
(1)正当性なしに国王が政策を押し付ける権利はない
名誉革命では、二つの重要なことが社会的に合意された。
1:
正当性が担保された統治者が国家を統治する。統治者の正当性は統治者選定のプロセスが担保する。
2:議会は当事者意識をもって予算(=財政基盤)を考慮決定する。増税に際しては、議会の明示的な承諾(=当事者として責任を持つ)が必要である。
 
 

一人の統治者、あるいはエリート集団が政府の権益を掌握することが問題だったのではなかった。問題は「統治者の選定原則、選定プロセス」であった。

被統治者の同意に基づく場合にのみ正当性をもって国家を支配することが可能で、その同意を継続する条件は、説明責任と代表制議会による監視&チェックであるという合意が形成された。
それらの背景には、政府の税金の無駄遣いを望まない英国納税者からの強力な政治的圧力があった。



(2)債券発行による軍事費ファイナンスを解決
ダウニング卿による第二次大蔵委員会(1667年~)が、以後50年間にわたる財政改革を始めた。
国債を発行することで財政基盤を充実させ、産業育成や戦争遂行のための武器調達で大陸欧州のフランスとスペインに差をつけ、両国との長い戦争に勝利した。国家経営において財政の重要性が再認識された瞬間だった。

資金調達の重要性は現在でも変わらない。軍備や産業の育成、そのための研究開発などは現在では世界中で重要な国策となっている。

国民に信任されている民主国家ゆえ、市場原理に基づいた一般庶民をも対象にする国債の発行が可能であったのだが、この点において資本主義と民主主義は国力強化の目的で相乗効果を生んだ。

4:売官制度・不正 VS 債券発行・規律
財政ファイナンスを国債発行で賄った英国に対し、フランスとスペインの裁政治や専制政治では「市場の規律の受け入れを条件とする金融市場」の信用を得られず、債券発行による資金調達が不可能だった。

両国は「いわゆる内部金融」に依存するしかなかった。内部金融とは、
官職を金で売り渡す売官制度と有力金融業者からの借金である。


売官制度は不正利権と非課税特権の温床であり、課税は特権のない庶民や農民が過大に負担することになったが、彼らの負担能力は低かった。

負担能力のあるエリート層は売官制度を通じて免税特権を得ており課税の対象外だった。また、王と貴族の力関係が拮抗しており、貴族の支配する地域の住民に対しては王は直接課税ができなかった。
王が直接支配する地域への課税だけでは戦費を賄えなかった。そのため、官職を金銭で売却する売官制度と国内外の金融業者からの借金、いわゆる内部金融への依存はますます高まっていった。

一方英国では、債券市場の規律に従うことで市場の信用を得て一般市民をも対象にした債券の発行が可能だった。その結果、売官制度(内部金融)を廃止できた。市場規律の受け入れと政府による多額の債券発行は画期的な出来事だった。
この点において、代表制民主主義は独裁主義よりも勝っていた
 
5:当事者意識
1689年の名誉革命当時の参政権率は、成人男子の20%だが、それは政治意識が高い20%であり政治力を持つ納税者だった。高い政治意識には、要求だけではなく負担と妥協の見識も含まれている。
 
社会の維持発展には、必要とあらば断固とした行動を取ることができる強い意志を持った国家を持たねばならない。そして、政府と有権者の双方が公共の利益を推進する当事者であるという意識を持たなければ、社会は劣化する。

英国は、1689年以降も社会的な団結力を維持し、議会に送られた代表者は自らに課税して、長引く2つの戦争の戦費負担を厭わなかった。(1688−1697:英仏戦争、1702−1713,英スペイン戦争)
有権者は国家経営の当事者意識を持っていたので、国家防衛は公益に必要と認めて高率税金に反対しなかったのだ。
そして議会は、政府から戦争の是非について意見を請われ、かつ課税の承認を求められたが、戦費負担を惜しまなかった。政府支出/国民所得の割合は、1689〜1697:11%、1741〜1748:17%、1778〜1783,24%と高水準だった。

英国政府は信用をバックに透明性のある公募の債券市場を通じた借入のおかげで経済&軍事を急拡大させることができた。大きな借入による大きな発展、つまり信用本位制資本主義がスタートし、経済成長が加速した。

なお名誉革命後、数百年を経て普通選挙の時代になり成人男女の全員に選挙権が与えられると、政治自意識の低い層(男女とは無関係)も有権者になった。すると負担と妥協の当事者意識は消え、要求するだけの有権者という色彩が増した。

6:資源国に民主主義が根付かない理由
お金が必要だから、課税させてほしいと依頼する為政者、税金の使途を監視する意識の強い市民社会、この両方が同時に存在していることが、民主主義が成立する条件である。

政府としては・・・
現代の新興国の多くでは、税金がなくても
天然資源を輸出するか、その開発権益を先進国に売却すればよいので、国民に妥協(=民主的になる)する必要がない
もしくは、海外から開発援助資金が直接政府にはいってくるので、国民に妥協(=民主的になる)する必要がない

国民は、・・・
税金を納めるというよりも、政府にぶら下がる意識が強い。
為政者としては、「お前らは、税金を払っていないのだから、参政権が無くて当然」という態度になる。
 

だから、民主主義が成立しない

参考図書
中国(上下):ヘンリー・キッシンジャー
国際秩序:ヘンリー・キッシンジャー
政治の起源(上下):フランシス・フクヤマ