2015年6月1日月曜日

地政学リスクの基礎知識(3)オスマン帝国崩壊が生んだ地政学リスク

(1)700年の栄枯盛衰の歴史
オスマン帝国は、1300年頃に現在のトルコに発祥し、その後欧州方面、アフリカ方面、アジア方面へと領土を拡大し、約400年後の1683年に最大の領土を獲得する。

その後は、徐々に周辺国家との戦争に負け、300年間の衰退の後、1922年に滅亡する。1922年にトルコ革命がおこり、現在のトルコ共和国に至った。
下図の緑が現在のトルコ共和国

オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン地域中東アフリカ地域には、多くの国が生まれた。
オスマン帝国は700年間にわたって、上記地域に影響を与えた。
被支配地域では、イスラム教に改宗して支配者に取り入ろうとする人々も多かった。人とモノの交流が数百年間も続き、様々な地域に様々な人々が移り住んだ結果、人種と宗教のモザイク状態が出現した。

その結果、新たな生まれた独立国内部には、少数民族問題、宗教問題という複雑で解決の困難な問題が抱え込まれた
それが、今日の地政学リスクの根本原因になっている。


(2)バルカン地域の民族と宗教と国家


第一次バルカン戦争(1912年)、第二次バルカン戦争(1913年)、第一次世界大戦(1914-18年)を通じて、オスマントルコ帝国が順次縮小し、そのたびにバルカン半島で多くの国が独立した。


オスマン帝国が侵入し支配を開始した14世紀から、各国が独立するまでには、600年以上が経過していた。
バルカン半島内部とその周辺地域には多数のイスラム教徒が居住するようになっており、さらにはキリスト教徒も複数の宗派に分裂して居住するようになった。

その結果、民族問題、宗教問題を起こさないような一本線での国境が引けない状況になってしまった。

オスマン帝国が縮小することになった戦争(第一次バルカン戦争、第二次バルカン戦争、第一次世界大戦)では、戦勝国の意向や都合で、様々な国がオスマン帝国から独立した。

その際、複数の民族、宗教、宗派が国境内に複数併存する形で独立したために、少数民族問題と国境紛争が独立当初から存在しており、それが21世紀の今日まで「時々噴火する”休火山”」のような状況を作り出した。


バルカン半島の地政学的なリスク、地域紛争は既に100年以上も続いている。
過去の多くの地域紛争がそうであったように、バルカン半島の紛争も常時闘っているのではなく、数年戦って、数年休む、激しく戦う場合もあり、小競り合いに終始する場合もある。
いずれにしても、いとも簡単に国境を超えて武力が行使される。

(3)中東アフリカ地域の民族と宗派と国境


世界地図で、中東アフリカの国境を見ると、直線の国境が多いことに気付く。
長い歴史の中で、ゆっくりと時間をかけて出来上がった国境は、山や川、民族の居住地域などにより、複雑な曲線になっている。


直線の国境とは、そのような事情を無視して、当事者ではない第三者の政治的な意思(多くの場合は、植民地時代の旧宗主国)で、国境が決められた結果を反映している。




その結果、バルカン半島とその周辺に新しく独立し国々と同様に、中東アフリカ地域で新たに生まれた独立国内部には、少数民族問題、宗教問題という複雑で解決の困難な問題が独立当初から抱え込まれた

この地域の根深い問題は、イスラム教内部での宗派対立である。
まったくの敵とは、感情を排した妥協をベースとした共存が可能だが、仲間内のいがみ合いの場合は感情的になるがゆえ、暴力的なイザコザが長期間にわたって続いてしまう。

オスマン帝国の支配下の時代と、それに続く欧米の列強の植民地の時代では、支配者や宗主国に対する怒りが大きいがために、仲間内のいがみ合いは抑制されていた。しかし、一旦独立して各地域が対等の立場になるや否や、仲間内のいがみ合い(スンニ派とシーア派の主導権争い)が一気に表面化した。

10年近く続いたイラン・イラク戦争(1980年~1988年)はその代表的な戦争だ。
現在でも、スンニ派の親分たるサウジとシーア派国家のイランとのいがみ合いは、さまざまな対立や代理戦争を生んでいる。



( 上図は、シーア派とスンニ派の居住地域図、ウィキペディアより ) facebookコメントへ